料理研究家たちの見えない相関図による疎外感の正体とそれでも今日も作って食べること
好きな料理研究家が何人かいる。まず栗原はるみさん。付随して息子の栗原心平さん。You Tubeでお馴染みのリュウジ(さん、てなんかこそばゆい(失礼))。
土井善晴さんの料理哲学にも共感できるし
有元葉子さんの料理論も深くうなずける。


先日J-WAVEのゲストだったウー・ウェンさんもなにげに大学生の頃から好き。




そう言うわりには、どの人にも完全に傾倒はできない。これからもそんな研究家には出会わないと思う。これが、私が全ての逆風に逆らって料理教室の仕事を続けている他ならぬ理由なのだと思う。
「一汁一菜で良い」「レシピを見ないで作れるようになる」「10品を繰り返し作る」
タイトルだけならそのいずれも、あ、私が言いたかったことだ!と思えるのだけど、よく中身を読んでみると元来面倒臭がりな性格と、決して料理が身近にある生活とは言えない日々を過ごしてきたせいか
このストイックさは持ち合わせてないわ…、今日はどん兵衛がどうしても食べたいわ…と一気に一般人目線に戻ってしまいなんなら自分が料理を教えることすら、畏れ多い行為なんだと突きつけられている気がして、そっと本を閉じる。
料理のハードルが高いわけ
その感情は料理を始めた頃から変わらない。お料理初心者と書かれた料理本を開きながら全ての作業に悪戦苦闘していた時代、何度も何度も「なんでここで酢水につけるの?あっちの本には水って書いてたし前見たレシピはアク抜きしてなかった。そもそもこの工程必要なの?」とか「急にゆで卵って出てきたけどこれってじゃあ前もって茹でて冷まして殻剥く作業が(書かれてないけど)あったってことだよね?(困惑‥)」といった場面に遭遇した。
その度に料理ってなんだか暗黙の了解事項が多過ぎて、そういうのを知ってる人だけが関わって良い高尚な営為なのかとすら思ったものだ。
だけど実際は異なる。
料理は人間が生きるために必要な瑣末な営為だ。
がんばって例えると、裸だと生きていく上で不便が多すぎるから最初はとりあえず暑さ寒さを凌げる服的なものをこさえていたが【=瑣末な営為】
これが発展し芸術性まで纏っていった結果が、オートクチュールやプレタポルテの高級衣類などの製作【=高尚な営為】。
当初の生命維持の目的から、だいぶ変化していることが分かると思う。
だからミシュラン1つ星の料理人と料理研究家は当然目的が異なるし、さらに言うと家族のためにご飯を作る人と、一人暮らしの人の自炊でも、内包している世界は私には全くと言っていいくらい違うものに見えている。
平野レミさんも仰っていました、私はシェフじゃなくて主婦なんです!って。
誤解を恐れずに言うと、料理人や生粋の料理研究家が書いたレシピは本当に分かりにくいものが多い。食材が手に入るかの現実味、家庭の台所で作ることを前提とした手順、効率性、ぱっと見の理解のしやすさなどがこれでもかという程抜け落ちている。
これら見えない相関図が家庭料理本や料理研究家の中でごちゃ混ぜになっていることが、私がいつも感じてきた料理をすること、料理を教えることは選ばれし者のみが適格者なのではという疎外感、不安感に繋がっていると今なら理解できる。
料理研究家に多い出自とその差を埋めるアイテム
現に有名料理研究家はサラブレッドが多い。両親の代で土壌が熟成されていたり、メディアと近い人間関係の出身者がほとんどだ。研究家である以上発信する必要があるので、その方が世間的にも受け入れられやすい。
そしてそれを補うのが「資格」「経歴」なのであって、今料理界隈には国家資格から民間資格まで種々多様な資格が存在している。当然私もその恩恵に幾許かはあずかっているのだが。
「経歴」というのは国内外の有名店や有名料理研究家、公共施設(病院や学校)での勤務・修行経験だ。華やかで手堅い経歴の持ち主は広い世の中本当にたくさんいるものだと驚く。キャリアや肩書きは人々の信頼を一定レベルで維持できるのだろう。
考えてみれば当然ですね。本来なら生きるために誰しもが必要に迫られている営みを教える人なのだから、何か秀でるものがないと。
生活の中にある料理
と、色々論じてみましたが私が大切にしている日々の瑣末な営為である自炊。これに関してとにかく興味が尽きない。健康に直結している。美味しいものを作って食べさせて自分を幸せにするスキルをその自分が持っていたら、一生幸せ。なんならおまけで近しい人のこともちょっとだけ幸せにしてあげられる。しかも安上がり(※これ大事)。
自炊は日常なんだ、それを決して忘れてはならない。いつも家にオレガノないよ。スーパーに行く時間すら残業続きだとないよ。TVer観たいし。部署転換希望出すか悩んでいる時にサラダスピナーまで洗う心の余裕ないよ。この後ジムにも行きたいし。エクレアとシュークリームを一度に食べることだけが、唯一自分を慰める夜だってある。って感じですよ。そんな日々ですよ。
全食物愛で生きていく
料理教室の先生がラーメン屋に1人で行くとイメージ壊れますか。夜に小池屋ののり塩ポテチとグリーンラベルで晩酌してるところは見たくないですか。ウーバーイーツでバーガー2個頼むとか引きますか。
イメージやブランディングがマーケティングでは大事だと死ぬほど言われていますね。ではなぜ私がジャンクフード系などのリアルな日常も発信するかというとそこには理由があり、自炊、食べることは息をすることと同じ日常だから。ここから切り離せない限り、メルティキッス買い込んだり唐揚げ弁当が好きなことも料理と同列で価値あることなのだ。
残り物の豚肉薄切りと、2本だけ余った野菜室の隅で自分の存在について憂慮しているナスを救いあげ、ゴマだれぱっと作って豚しゃぶナス食べることも等しく尊い日常なんだ、ということを伝えたい。
私は食べること全てが愛おしい。
おもてなし料理やインスタ映えする料理を教えるカテゴリの先生は、基本リアルな日常は見せていないですね。でもそれはそれ、これはこれ。彼ら彼女たちも普通に菓子パン食べているだろう。何を切り取って見せるかなのだ。
どこにもないけどここにはある
昔は母親にそう教わったら何も聞かずそっくりそのまま覚えそしてそれを子に伝え続け、脈々と家庭料理は受け継がれていった。
今は食べるものも無限に選択肢がある。ある程度料理スキルを持った人は、もはやネットや動画で無料でいくらでもレシピを増やせる。作り方もどこまでこだわるのか、作業工程の根拠を自分で調べられれば省いて良いかどうかも判断できる時代。
リュウジ(さん)の料理哲学は自分のそれに近いものがあると動画を見ていて思う。年齢近いしバックに何もなくても今の職業に携わっているからかな。ってレベル全然違うもはや雲の上のお方だけれど。勝手に自炊料理家界の先駆者、スターだと思っている。
序盤で紹介した他料理研究家の書籍も、かなりシンプルな思想にはなっているけれど、その実、やはり根底に流れているベースは聞こえは悪くなってしまうが昔からのやり方。
料理は愛情だけれど、愛情の全てが料理ではないと思うし、
下処理の方法、かける時間と労力のバランス、選ぶ食材などがどうも働く36歳には合わない部分も多いのだ。
(じっくり丁寧に料理をすることを批判しているわけでは、決してありません。私も余裕があればそうする時もある。)
偉大なる先生たち、ごめんなさい。皆様おおよそ御歳60歳オーバー。大成するには時間もかかるということ。
選択肢が無限に、しかも無料でも存在している中で、自分の体は何を喜ぶのか、どんな味が自分の味なのか。外食やお惣菜と自炊のバランスは、どんな風に保てば良いのか。結局それらを知っていることが一番大切なのだと思っている。そしてその答えは人それぞれで正解はいくつもある。
そんなことも含めて発信していきたいと思っているのがClass Blue Recipeです。名の知れた料理研究家と比べると華やかな肩書きはない私ですが、気づけばもうすぐ5年目に突入する。この情報過多な日本でその現実感をしっかり取り入れ運営しています。生きるって綺麗事だけでは済まないでしょう。キッチンに立つ人は今日もどこかで卵の空パックを足で踏み潰している。だけどその全てが愛おしいと思う。どこにもないけどここにはある、をめげずに作り出していきたい。